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2009年2月22日 (日)

効く仏教にするために

この文は改変中。今書きたいことをメモしていきます。

現在の世の中の(自分自身を含む)精神的な荒れを、どう正していけるのかという問題は、恐らく誰もが考えようとし、心をいためている。

日本人が明治期に西洋諸国に対して開国したことや、敗戦後の大転換、その後の驚くべき経済発展で、マスコミ情報などで、ますますその精神があらぬ方角へ迷走した。

西洋人が驚いた江戸以前の日本人の心根の背景、根底はどのようなものか?学校で教えてくれないし、家庭でも、地域でも教えられないようになってしまった事々。

仏教を学ぶことは日本を学ぶことで、この場合、神仏習合の仏教である。観音信仰、地蔵信仰。阿弥陀信仰を宗教はだめという、愚かな思想がバカにしてきた。

鈴木大拙「日本的霊性」岩波文庫の霊性ということばは、他の人はあまりつかいません。仏教のことを書いてあります。禅者の大拙が南無阿弥陀仏について多く語っている。英語で真宗入門の講演までやっている。心ある多くの僧が禅も浄土門も同じことと言われています。ならば日本の伝統仏教の曹洞宗、浄土真宗という二大教団が一つになれるはずなのだが・・大拙の批判的研究はこれからなされるでしょう。

肥大化した仏教をそぎ落として釈尊にせまる作業はこれからの仕事。

明治政府の行った神仏分離と、それを受けて民衆が行った廃仏毀釈、が我々の精神世界に影響してきた。現在までつづいている。平成の神仏習合をやったらどうか。と、このまえ書いたが、「日本仏教の可能性」末木不美士〔春秋社)にちょっと書いてあります。仏教関係の他の本にはなかなか書いてありません。明治時代以降の仏教史はまだ出来ていません。

政府の神仏分離政策を阻止した真宗の島地黙雷も、大谷探検隊の大谷コウズイ、チベット潜入の河口慧海などなど、教科書に詳しくのってもいいはずのひとが、抜けている。日本近代史はこれからです。いまの教科書を覚えるだけでは、まったくだめです。

釈迦の誠実さを示すものとして、無記とか、捨置とか言われることがある。死後の世界はどうなっているかとか、そういう質問には一切答えなかった。インチキ教主とは大違いで、こんな人は珍しい。

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2009年2月20日 (金)

仏教は効くか

仏教は私にはよく効きました。それも釈迦その人の仏教です。

その教えは極めて厳しいが、極めて簡単です。むつかしいことは言っておられない。

日本のお寺の仏教は鎌倉時代にできた宗派の流れのままなので、素人には何がなんだかわからないのが現実です。

四国遍路や仏像研究がブームといってもよい状況ですが、趣味の仏教として楽しむには良い。仏教ごっこです。私もやります。だが私が今言っている仏教(釈迦の教え)とは無関係と思った方が間違わない。

「禅」という映画を見にいったら、満員だったのでびっくりした。宗派の動員がかかっていることがわかる。

道元主役ではドラマは作りにくい。釈迦のことばと違って道元は難解で、高橋監督も苦労しただろう。

病気で死にかかっている(すでに死んでいる)子供をかかえて「たすけてほしい」と、すがる母親に「たすけてやるから、死者を出した事のない家から豆をもらってきなさい」という話は、道元の話ではない。インドの釈迦の話だ。村中回っても、そんな家はない。死を受け入れろという厳しい対処だ。

この話は母親にたいして極めて冷静。今のマスコミなら冷酷という非難をして大騒ぎをするような話だ。世間的な情ではごまかしの対処しかできないことを示している。これが真の仏教。

浄土真宗の御文章でも「朝(あした)に紅顔、夕べに白骨」とあるのは釈迦の仏教が正しく伝わっている例だが、インドの原始仏教では、もっときつい言い方で、どんな美人も鼻汁はたれるし、死ねば肉体はくさっていく。諸行無常であるから、とらわれるなという。実にきびしく指摘されている。

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