2009年6月12日 (金)

宗派を越える大きな心

仏教を学ぼうとすると、宗派の壁にぶちあたる。

浄土門にも、浄土宗と浄土真宗では、違う所が多い。

私の家は浄土真宗の西だったので、子供の頃から見聞きしていたお経や、法事のやり方など、真宗のものが頭に入っている。今他の宗派を勉強してみると、その違いに戸惑う。そこで常に釈尊にまで逆上り、お釈迦様なら、どうおっしゃるか?どうされるか?と問いつづけることが間違いを防ぐことになる。

宗派の祖師の言われることを全てうけいれると、他派の祖師の言われることとは矛盾してしまう。唯一矛盾しないのがお釈迦様でしょう。

浄土真宗は親鸞上人を立てているが、親鸞上人は法然上人を全面的に信頼されていたし、観音信仰もあった。しかるに、真宗では、わずかに源空〔法然上人のこと〕の名は出てくるが、「一枚起請文」にも触れない。歴史教育で法然と一枚起請文を線で結ぶことだけは、知っているが、読んだこともない人ばかりだろう。これは実にお勧めです。一枚だけだから短文です。教科書にのせるべきなのだが・・

浄土真宗の方もぜひ読まれると良いでしょう。「南無阿弥陀仏」の念仏に磨きがかかることうけあいです。

般若心経や、観音信仰や地蔵信仰も日本の歴史のなかで日本人の心のなかにしみ込んでいる、だが真宗では無縁だ。けれども、先々代の法主の大谷光瑞師は観音さまや、般若心経についても大事なものとして講演されている。真宗の僧侶も庶民の信仰にもっとおおらかであるべきだろう。他宗ではやるが、水子供養をされるお寺もあって良い。どこの宗派も教団の維持に力が入り過ぎている。お釈迦様ならどういわれるだろうか?大谷光瑞師は親鸞上人のことを見真大師とされているが、これは明治天皇から下されたもので、最近これを使わないようになったのは、とてもよいことだ。

大師号は朝廷からいただくものということさえ、きちんと認識していなかった。江戸時代ならともかく、廃仏後の明治や昭和の大師号など即刻返上されるべきだろう。お大師様は弘法大師空海だけで良い。

座禅についても、天台宗や真言宗でも、似たような瞑想をやっているのに、そのことに一般の人は無知だ。

とにかく仏教は誤解だらけでうんざりするし、呆然としているのが現状です。

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2009年5月 2日 (土)

日本仏教はやわかり

仏教を学ぼうとしても、どこから入ったらいいのか、初心者はわかりません。そこで、いい講義を紹介します。

中野師の「宗教、宗派のいろいろ」の講義をお受けください。

http://www.tibs.jp/kougi/nakano/nakano.html

日本の仏教早わかりの講義です。ここまではっきり書いてあるのは他にはありません。中野師ならではの講義です。マスコミではまず無理です。これを読めば、かなり日本の仏教の現状がわかるでしょう。

気をつけてほしいのは、新興の教団の巧妙な勧誘です。前にも書きましたが、金はなくても仏教はできる。むしろ、金がない方が良い。まず、お釈迦様の言葉を聞くことです。立派な建物や、マスコミでの名声、高いベストセラー本、有名であること、などにだまされないように、自分を作り上げること。自灯明がそれです。

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2009年3月 2日 (月)

した仏教

話が仏教全体に大きくなりました。反省して「私の苦」にもどります。だれにも悩みがあり、苦をかかえています。だれもが楽になりたいと七転八倒してもがいています。参考にして少しでも楽になって下さい。

細かいことにこだわり、がんこで、ちっぽけな自分の縄張りを死守して、意地をはる。そのくせ気が弱く、心の中は不安だらけ。自信がない。都合が悪くなると嘘をついて逃げる。私はそういう人ですが、現代人は、ほとんどの人が同じです。たぶんあなたもそう。

これでは幸せにはなりません。生きるのが苦しいだけです。ただ、仕事、金銭状態や家庭、交遊関係がうまくいっているときは、いいのですが、時にろくでもない事件がおきます。身の不幸をなげいて、酒におぼれたり、あばれたり、けんかをふっかけたり、ひきこもったりします。見栄をはって、そういうことをしないうちは、表面的にはいい人を演ずるのですが、そのストレスによって肉体が傷をおいます。本人の自覚がなくても、頭に十円ハゲができたり、胃がただれたり、腹痛をおこしたり、ぶるぶるふるえたりします。

私はとても神経質なたちで、ストレスがすぐ胃にきます。20歳くらいの時、バリウムを飲みました。まだ胃検診が普及するまえです。

精神を鍛えないと生きてはいけないと感じましたので、いろいろ本を読みました。自己催眠法(シュルツ・成瀬の)はそのころから、ずっとやっていますが、むつかしてく、いまだにだめです。

座禅ですが、これもむつかしいです。数息観は検索すると詳細に説明されたサイトがあります。真言宗のサイトに親切なものがある。阿息観もよさそうです。

座禅をするなら、まず、お釈迦様に直接習うのが良い。釈尊自身がインドの修行者から瞑想法を習っている。その流れから、ヨーガ、気功、仙道など座禅のバリエーションが伝わっている。比較的気功(これにもいろいろあるらしいが)は健康法として効果があがるように教えてもらえる。

普通の人はお寺に行って座禅をする余裕などない。昔のひとでも、民百姓は座禅などしていたら、生活がなりたたないし、周りから「働け」といわれるだろう。あれはひまな武士のものだ。

そこで、わたしは、布団に寝てやっている。毎晩ねるのだから、だれでもできる。勝手に臥禅(がぜん)といっていたら、白隠禅師が仰臥禅(ぎょうがぜん)というのを勧めている。

 軟酥(ナンソ)の法(頭から味噌のようなものがたらりで、自己催眠に似ている)をやったことで有名。ほかに浄土真宗からでた内観法などもあります。(ネットで勉強して下さい。私もまだ不勉強ですが、東横インに泊まると関係の本がおいてあります。仏典もおいてありました。)

こういうのをかたっばしから試すのもお勧めです。が、やはり釈迦の直弟子になるのが一番効きました。釈迦には十大弟子がいますが、一億番目くらいのおしかけ弟子です。

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2009年2月22日 (日)

効く仏教にするために

この文は改変中。今書きたいことをメモしていきます。

現在の世の中の(自分自身を含む)精神的な荒れを、どう正していけるのかという問題は、恐らく誰もが考えようとし、心をいためている。

日本人が明治期に西洋諸国に対して開国したことや、敗戦後の大転換、その後の驚くべき経済発展で、マスコミ情報などで、ますますその精神があらぬ方角へ迷走した。

西洋人が驚いた江戸以前の日本人の心根の背景、根底はどのようなものか?学校で教えてくれないし、家庭でも、地域でも教えられないようになってしまった事々。

仏教を学ぶことは日本を学ぶことで、この場合、神仏習合の仏教である。観音信仰、地蔵信仰。阿弥陀信仰を宗教はだめという、愚かな思想がバカにしてきた。

鈴木大拙「日本的霊性」岩波文庫の霊性ということばは、他の人はあまりつかいません。仏教のことを書いてあります。禅者の大拙が南無阿弥陀仏について多く語っている。英語で真宗入門の講演までやっている。心ある多くの僧が禅も浄土門も同じことと言われています。ならば日本の伝統仏教の曹洞宗、浄土真宗という二大教団が一つになれるはずなのだが・・大拙の批判的研究はこれからなされるでしょう。

肥大化した仏教をそぎ落として釈尊にせまる作業はこれからの仕事。

明治政府の行った神仏分離と、それを受けて民衆が行った廃仏毀釈、が我々の精神世界に影響してきた。現在までつづいている。平成の神仏習合をやったらどうか。と、このまえ書いたが、「日本仏教の可能性」末木不美士〔春秋社)にちょっと書いてあります。仏教関係の他の本にはなかなか書いてありません。明治時代以降の仏教史はまだ出来ていません。

政府の神仏分離政策を阻止した真宗の島地黙雷も、大谷探検隊の大谷コウズイ、チベット潜入の河口慧海などなど、教科書に詳しくのってもいいはずのひとが、抜けている。日本近代史はこれからです。いまの教科書を覚えるだけでは、まったくだめです。

釈迦の誠実さを示すものとして、無記とか、捨置とか言われることがある。死後の世界はどうなっているかとか、そういう質問には一切答えなかった。インチキ教主とは大違いで、こんな人は珍しい。

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2009年2月20日 (金)

仏教は効くか

仏教は私にはよく効きました。それも釈迦その人の仏教です。

その教えは極めて厳しいが、極めて簡単です。むつかしいことは言っておられない。

日本のお寺の仏教は鎌倉時代にできた宗派の流れのままなので、素人には何がなんだかわからないのが現実です。

四国遍路や仏像研究がブームといってもよい状況ですが、趣味の仏教として楽しむには良い。仏教ごっこです。私もやります。だが私が今言っている仏教(釈迦の教え)とは無関係と思った方が間違わない。

「禅」という映画を見にいったら、満員だったのでびっくりした。宗派の動員がかかっていることがわかる。

道元主役ではドラマは作りにくい。釈迦のことばと違って道元は難解で、高橋監督も苦労しただろう。

病気で死にかかっている(すでに死んでいる)子供をかかえて「たすけてほしい」と、すがる母親に「たすけてやるから、死者を出した事のない家から豆をもらってきなさい」という話は、道元の話ではない。インドの釈迦の話だ。村中回っても、そんな家はない。死を受け入れろという厳しい対処だ。

この話は母親にたいして極めて冷静。今のマスコミなら冷酷という非難をして大騒ぎをするような話だ。世間的な情ではごまかしの対処しかできないことを示している。これが真の仏教。

浄土真宗の御文章でも「朝(あした)に紅顔、夕べに白骨」とあるのは釈迦の仏教が正しく伝わっている例だが、インドの原始仏教では、もっときつい言い方で、どんな美人も鼻汁はたれるし、死ねば肉体はくさっていく。諸行無常であるから、とらわれるなという。実にきびしく指摘されている。

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2008年12月31日 (水)

なる仏教2

犀の角に新論文を掲載しました。平成20年に猛勉強して書いたものですが、仏教塾へのレポートで、自分のまとめなので、これを読んでも、さっぱりわからないでしょう。仏教研究をどのように、どこから手をつけるかは、難題です。一冊でわかる本はありません。一冊で、ますます、わからなくなる本は、たくさん出ていますが・・・

前に100円で仏教を勉強できると書きました。私が読んでいる「釈尊のさとり」増谷文雄(講談社学術文庫)は入手価格120円です。

「阿含経入門」友松円諦(〃)はずばり100円でした。青い背の講談社学術文庫は意欲的に明治以降の仏教運動の書を出版しています。編集に炯眼の氏がおられるようだ。

戦後忌避されてきた江戸以前の神社寺院の情報がテレビ番組でも盛んになってきました。(正月に、ビートたけしがやっていた学校で教えない神社仏閣の番組はとても参考になりました。)科学の進歩とその地球規模の行き詰まりによって、宗教(といってしまうと誤解されるのだが)人類とともにずっとあった「大きなもの」をもう一度ゼロから見つめなおす動きが出ている。仏教研究は(当然神社や地域の慣習も含む)最先端の知的探求です。

仏教はこの世に生きる者の「抜苦余楽」の法を教えるものです。苦しみをなくし、楽になるためのものです。実際効果があることは体験できました。

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2008年11月 7日 (金)

なる仏教 犀の角

釈迦の言われることを聞くと、仏教とは私が「仏になる」ための教えだとわかる。いわゆる宗教とはまったく違う。

宇宙から帰ってきた飛行士や、科学者が仏教に関心を寄せるのはなぜか。アインシュタインは「近代科学と共存できる宗教は仏教」という。たしか・・・どこかで読んだ。彼の知った仏教は日本の仏教ではなく、原始仏教、釈迦その人の仏教の基本的なメッセージだろう、恐らく。

犀の角(さいのつの)とは「尊敬できる人が居るならば付いて行け。居なければ同じ志の良い仲間といっしょに行け。それも居なければただひとりで歩め、犀の角のように」というような言葉なのだが・・・先日テレビで犀が走っている所を見た。犀はけっこう早く走るが、角がすーっと動いていく。上下にぶれたりしない。堂々としたその様子に例えたのだろう。 (「ブッダの言葉」岩波文庫 中村元 にスッタニパータにあるこの詩句がある。南伝の経で、日本の大乗仏教では無視されてきたもの)

悪い仲間とは群れるなという教えもはいっている。孤独をおそれてはいけない。毅然として一人で歩めという教えは、現代の我々に釈尊が言われていることだと受け止めましょう。

とりあえず、ぶたごやホームページに「犀の角」というページを作りました。ここにのせている文は、仏教の知識がないと難しいです。これも、もっとわかりやすく解説付きにします。おいおい。オイオイ。

http://homepage3.nifty.com/harebuta/sainotuno.htm

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2008年10月23日 (木)

する仏教

仏教はお寺さんに「 してもらう」もの、というのが現状です。だが、これは釈迦の言われることに反する。

仏教は自らすることのための教えです。仏教書を読んで理論を学んだり、知識を蓄えただけではだめで、禅であれば座禅をする。浄土門であれば「南無阿弥陀仏」をとなえる。日蓮宗であれば唱題行など、あるいは、作務として掃除や草取りをひたすら「する」ということを教わる。そんなことをしてなんになるのかという疑問は常にある。だが、その疑念を一度捨てて、阿呆らしいことを一生懸命やるのが、極意。小賢しい教育を受けた頭を徹底的にぶち壊すことが初歩の初歩だ。

「する」ことなしに、知識で頭がいっぱいになって、またそれを得意気にひけらかすようだと最悪である。これはスポーツや芸術、また料理などでも同じ。

で、仏教は役に立たなければ仏教ではない。逆にいえばとても役に立つ、効き目があると思うようになりました。

とにかくお釈迦様の直の説法を受けることです。

新しくてとっつきのいい本は、かってNHKの教育放送のこころの時代で放送されたものをまとめた「ブッダの人と思想」中村元・田辺祥二(NHKブックス)です。

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2008年9月 4日 (木)

自分をたよりにする

原始仏教で釈尊がいわれたことの一つに「自分をたよりにしなさい」ということばがあります。

フロイトが精神分析をするとき、他人の頭を解剖してもだめです。自分の心を観察することから、他人の心を推測します。哲学、心理学も同じ。

かっとなったとき、その怒っている自分を観察するもうひとりの自分がいます。その冷静な自分を育てるのがいいでしょう。怒りっぽいひとは、心がけるといいです。生きる知恵です。

具体例はひと昔まえに、はれぶたシリーズの「ぼくへそまでまんが」の後書きに書きました。そのころは子供には「自分の人生では自分が主人公」というメッセージを出したりしていましたが、いま釈尊の教えを学ぶと、さらに深まります。

お寺さんでは「自灯明」という言葉で説明します。自分の光をたよりに暗闇を進め」ということですが、インドの原典では「灯火」ではなく「島」となっています。「洲」と書いた方がいいかもしれません。

川がはんらんして水に流される状況での身をおく「島」です。「自分自身を島とせよ。よりどころとしなさい」というのが釈尊の言葉です。

宗教嫌いのひとでも納得の教えでしょう。

釈尊をたよりにしていた弟子が、釈尊が亡くなるまえに、「私たちはなにをたよりに生きればいいのですか?」と質問したときの答えです。もうひとつ「法灯明」があります、今まで多くの説法をした、その法(教え)をたよりにしなさいという答えです。

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2008年8月26日 (火)

たのしい仏教は無料です

私が「宗教」という言葉を使ったとたんに、「宗教なんてとんでもない」「私は無神論者です」という言葉が返って来る。

過剰反応です。宗教という言葉自体が、明治時代にできた言葉で、社会とか゛哲学も同じ。こんな言葉を使って物事を考えていたらまちがいます。よくよくよく考えると、何のことかはっきりしない言葉です。

宗教を勉強しはじめてみると、まず最初に「宗教」を定義すること自体が不可能であることに気がつきます。みんな勝手にちがうことを思っているだけです。話にならないとはこのことです。

で、昔の偉いお坊さんのなかには、言葉を使わないことを考えた人が多い。仏教を学習していくとわかります。これは優れた一面です。

「以心伝心」などもそのことをあらわす言葉です。

言葉たくみに人をだまして金儲けする宗教は現在も健在です。これは宗教ではないのに、それを宗教と思っている人が多い。

宗教には一円もかからない。心の中のことだから、金の使いようがない。釈迦はすべて捨てよとおっしゃっている。この世間の論理を捨てるのに金は一円も要らない。

古本屋にある百円の文庫本で仏教は学べます。貧乏人こそ幸せになれるのが仏の教えです。南無阿弥陀仏と唱えるだけでいいのだから安いもんだ。

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